instagram、違うようで同じ、近いようで遠いディスタンス
インスタグラム。雑誌の切り抜きかと思うほどのおしゃれなコスメの写真、アングルも凝っていて、その人はこう自分を魅せたいということをはっきりわかる。しかし、どれも誰かのインスタグラムで見たような写真のテイストだから本当に個性があるのかないのかはわかならい。けどそれが見ていて安心する。身近に感じる。
昔加藤ミリヤの「HEART BEAT」(コカ・コーラの歌だったやつ)を聞いた時、ある一小節が気になった。
笑って泣いて みんな同じって 喜び抱きしめる
完全なるゆとり教育に染め上げられた身なので、他人の個性を大事にしましょうと叩き込まれてきた。だからこそ、みんな違ってみんないいという考えであって、みんな”同じ”ってことに喜び感じることに対して違和感があった。同じ、なんて私たちの世代では誉め言葉ではない。同じで安堵するのはせいぜい宗教程度。同じで喜ぶ?
―—―違う人間ってことより、受け入れがたい”同じ”ということ。
でも、この曲は好きだ。同じってことを感じてもいい。違うってのと同じくらい、同じっていうのも素直に受け入れる肯定感。
SNSは今まで遠くで輝く有名人との距離をぐっと縮めてきた業績がある。
しかし、自分が昔好きだったある芸能人をふと見かける度になんとなく複雑になる。すごく申し訳ない気分になる。
同じなんかじゃ全然なかった出来事だ。
自分がその人を知ったのはインスタグラムだった。モデルなので、すらりとしていて、赤いリップと独特の言葉遣いとセンス。古着もモードも着こなして、これぞシティガールだと思った(Popeyeかよ)。そして、そんな素敵な人に直接メッセージを送れるなんてこの時代の素晴らしき哉。いろんなメッセージを書いた。明らかにおべっかな内容で。時には質問系で書いたりした。
もちろん、返ってこない。当たり前のことだ。
自分がどんなに考えた文も届いているかわからない。たぶんその人の友人と思しき人物の短くて内容のない文にはその人の返信があった。
ある日、その人が活動に関して感謝の投稿を行った。速攻、賛辞のメッセージを送った。すると、
いつも応援ありがとうございます。
との返信があった。その文はファンと見られる人、全員に送った文。実に機械的であった。
分け隔てないそのメッセージにはどうしようもない隔たりを感じた。
それを見て、私はメッセージを送ることをやめてしまった。この距離は決して埋められない。ファンである以上、近くなんてならない。遠いんだ。
その人に決して攻撃的な内容を送ったことはない。その人も有名人なのだからファンと友人の線引きをきちんとしていた。SNSのルールと秩序は守っていた状態だった。だからこそ、突然その人にメッセージを送らなくなった自分が後ろめたい。勘違いしていた自分が痛い。このことは何となく恥ずかしくて誰にも言えなかった。
違うようで同じ。近いようで遠い。これが私にとってのインスタグラム。
今日も、遠い世界の人を間近にいるような幻覚を見、個性ある人のどこかで見かけたような投稿に癒されている。