ボーイミーツピンク

男子がピンクを好きになるように、臆することなく好きなものをむふむふ愛したいんだ

先生といううぬぼれに溺れてしまわぬように

 塾で働いていたころ、ある塾講師がこんなことをよく私と2人の時に言っていた。

「自分は東大生よりもよっぽど頭いいし、その辺の塾講師よりも教え方がうまい」

 社員3人の塾部門の中では、もちろん教え方もうまいとは思っていた。でも、その東大生より頭いいという自信、教え方は一体誰とどう比較してなのか検討つかなかった。ちなみに大学は私の大学とさして変わらない偏差値50ぐらいの大学だったような覚えである。根拠のない自慢や中学生ぐらいの勉強できたという話などは生徒の前か塾講師の前ではよくしていた。けして上司にはしないのだ。

 はじめはマウンティングのようなその行動がうまく理解できず、だからなんだと苦笑いしていたが、そのうち褒めたほうが相手の満足度が上がり次第に話さなくなるし、自分についても好感度が上がるので、口裏を合わせることが多くなった。

 しかし、確かに先生という職業って全能感を与えることがあるのだ。それは勉強を子供に教えると、まるで自分は何でも知っているような感覚になる。それが心地よい感じに思えるのだ。まあ言うならば、自慰のようなものに陥る。

 また、生徒は先生に従う。おまけに「先生」なんてご立派に呼ばれてますます見失う。それが先生という妙に勘違いをした(自分も含め)存在を作りだすのだと思う。昔、会社の別部門で教員の団体保険を売っている人が中学校で営業している時にある先生を見かけた。その先生は電話越しに、

「だから~、アンタネェ、お宅のお子さんはそこがだめなんですってば!」

と、保護者に説教していたらしい。昔と言っても平成最後の年の話だ。保護者(お客様)をアンタと呼ぶなんてのはさすがに塾講師(会社員)はしないが、そうなってしまったのはなんとなく理解できる。

 なんか勘違いしちまう感じ。まじでこわいわ。

 

「今のあなたの中国語レベルを100パーセントで表すと?」

と今日中国語の先生に聞かれた。この先生はとてもいい先生だよ。

 考えてみる。日常で特に支障なく会話ができる。血のにじむ練習を経て、おおよその発音はできてるはずだ。なので、この時点で50は超えてると認識している。さらに、特定の分野の自分の考えを述べたり、だいたいの内容を文章から掴める。大学院にも入れたし、HSK6級も合格水準以上はある。でも、経済や医療などはいちいち単語を確認しなければ認識できない。文法もまだまだだ。となると、70ぐらいだろうか。

 謙虚な数字を出すことは意外と簡単だと思った。しかし、低ければなんとなく中級の人たちや何年か前の自分を軽んじてるように思えた。だから、周りはどう思うかわからないけど、

「70パーセントです」

と答えた。クラス全員に同じ質問がされた。思いのほか皆の答えもだいたい60か70ぐらいだった。

 先生は、

「ああ、このクラスの人たちは正常ね。90とかいう答えも論外だけど、10や20という答えもよくないの。ちゃんと自分の力がわかってる」

 10や20はストイックすぎるという意味もあるだろう。日常会話ができるのに10、20というのは。追い詰めすぎというか。

 将来、中国語の先生になる学部にいる。自分の実力を正しく理解していこう。

先生なんて言葉に惑わされないよう、自分だけは自分のことをちゃんと知っていたい。